「昭和二十年八月二十日頃であったろうと思う。鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たっていたと思われる頃の出来事だった。...。
そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足を引きずりながら玄関に出て見て驚いた。十二、三の少女から二十ぐらいの娘が十名程タンカに乗せられて運ばれていた。それは、まともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、また恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に爛れ上がって、その原型はなかった。大腿部は血がいっぱいについている。顔をゆがめつつ声を出しているようだがききとれない。次の女性はモンペだけをはぎとられて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切り口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片眼を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無残、残酷さに敗戦のみじめさを知った。
注:「されど、我が満州」 文藝春秋、172~3頁 されど、わが満州
中川八洋氏の著書「歴史を偽造する韓国」の中に上記の文章が引用されている。そして、同氏は、次の様に述べている。
ロシア(ソ連)では侵略したその地での強姦(レイプ)は一種の「給与」として無制限に許可されていた。実際に、ロシア兵の残忍なレイプの惨状に憤慨して止めに入ったその上官のロシア将校の方が銃殺されている。ロシア軍には実態として、「給与」支給妨害罪があるのだろう。
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