韓国については、1949年(昭和24年)12月3日、駐大韓民国アメリカ大使が中国国民党軍の朝鮮人部隊、大韓民国臨時政府の存在、韓国を署名国にすれば非現実的な対日請求要求を諦めさせることができること等を理由に韓国の参加をアメリカ国務省に要請した。それを受けて、駐韓アメリカ大使の進言後の1949年(昭和24年)12月29日の条約草案では、韓国が締結国のリストに新たに加えられた。日本は当初、韓国と戦争状態になかったこと(大韓帝国は戦前に日本と併合され、大韓民国臨時政府を承認した国も存在せず、また他の亡命政府のような「大韓民国臨時政府」の指揮下にある軍も存在しなかった)等を理由に反対したが、「追加覚書において在日朝鮮人が連合国人としての地位を獲得しないこと」を条件に署名反対に固執しないとした。
しかし、日本と戦争をしていなかったことを理由に、イギリスが1951年(昭和26年)5月の米英協議等において韓国の条約署名に反対し、アメリカも韓国臨時政府を承認したことがないことから方針は変更された。1951年(昭和26年)7月9日、ジョン・フォスター・ダレスは韓国大使との会談で「韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、連合国共同宣言にも署名していない」として署名国となれないことを通知した。この通知後も再び韓国は署名国としての地位を要求したが、1951年(昭和26年)8月22日にダレスは韓国大使の署名要求を再度拒否するとともに、講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否、「非公式に代表を送るのであれば宿泊や会場入場等の便宜をはかる」と回答した。その後、李承晩ラインの設定などで険悪になった日韓両国の国交が回復するのは、1965年(昭和40年)の日韓基本条約の締結まで時を経なければならなかった。
ウィキペディアより
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